執筆者:ウッドマン (メンバーについて確認する) | 翻訳者:林 尭親
このコメディスケッチは、日本に住む外国人のグループチャットでしばらく前から広まっており、いつも通りさまざまな反応を引き起こしている。
「笑える、でもリアルすぎて嫌だ。先週まさに同じことがあった。」
設定はごく日常的で、一見無害に見える。あるレストランに、広い意味で「外国人」とみなされる客が数人いる。ところが、店員がテーブルに近づくと、その場にいるアジア系の外国人に向かってすぐさま日本語で話しかける。しかし実際には、日本で生まれ育ったのはアジア系以外の外国人たちである。彼らはウェイトレスに、アジア系の人物はアメリカ人で日本語をまったく話せないと説明する。それでもこの店員は彼らが話す(実際には日本語を話している)英語が理解できないかのようにふるまい、ひたすらアジア系の人物にしか話しかけない。
ア系の人物はアメリカ人で日本語をまったく話せないと説明する。それでもこの店員は彼らが話す(実際には日本語を話している)英語が理解できないかのようにふるまい、ひたすらアジア系の人物にしか話しかけない。
矛盾が滑稽なまでに誇張されているから、笑える。スケッチの中で店員の混乱は、状況がどれだけ明らかになっても収まることなくエスカレートし続ける。この体験自体は必ずしも深刻な害をもたらすわけではないため、日本に長く住んだことがある外見上「外国人らしい」人なら誰もが共感するような経験を、風刺として描きやすい。
しかし、レストランでの店員のような些細な誤認は多くの場合は無害であっても、それはより深い偏見へとつながる反射的反応から生じている。
一体何が起きているのか
このスケッチで示されるように、外見上の社会的アイデンティティの手がかりは、聞き手が発話を処理する際の予測的文脈の一部をなす。つまり、話し手に対する期待や予測が、言語的シグナル自体が変わらなくても、聞き手が実際に「聞こえる」と感じる内容を形成しているのである。
こうした思い込みの背景にあるのは、部分的には、日本社会の文化的視点に広く浸透している「日本人/外国人」の二項対立である。この視点においては、社会的カテゴリーがしばしば「動く標的」として機能し、人々は誰が「仲間」であるかを判断するためのさまざまなマーカー(指標)やシグナルを用いる。「受け入れの社会的マーカー(social markers of acceptance)」に関する研究では、こうしたマーカーは社会的に構築された基準(語学力、規範への準拠、血統など)として定義されており、人々はこれらを参照しながら誰かを国民的内集団の一員として扱うかどうかを判断する(Komisarof et al., 2019; Komisarof et al., 2025)。
これらのマーカーは固定されていない。人々が「脅威」を感じると基準が厳格化する傾向があり、また誰を評価するかによって、社会言語的・民族的同調性が強調される場合もあれば、社会経済的な「有用性」が重視される場合もある。
日本の若者を対象とした実証研究によれば、「日本人であること」は日常的な手がかり——日本語使用、遺伝の表現型(見た目など)、氏名、行動、国籍、その他の帰属指標——から推論されることが多い。これは、ある一つのマーカーが他のすべてを凌駕し、他のすべての基準を満たしていてもアイデンティティから排除される事態が生じうることを意味する(Sato, 2021)。こうした文脈では、「誤った」出自が推定されれば市民でさえ部外者として扱われることがあり、歴史的に深い結びつきを持つ集団であっても、境界条件が満たされない限り永続的な非メンバーとして位置づけられることがある(Sato, 2021; Komisarof et al., 2025)。
これは単に個人的な偏見の問題ではない。「日本人らしさ」が言語・文化・人種・国籍を一体のものとして社会的に構築されてきた結果、「日本人でない」ことがあらゆる差異を包括するカテゴリーとなっているという問題でもある(Yamashiro, 2013)。そのまとまりが自明のものとして扱われると、「誰が日本人か」という問いは記述的なものではなく規範的なものになる。そしてそれは、社会のメンバーが信頼・忍耐・社会的承認をどのように配分するかに影響を及ぼしうる。
日常的なやりとりにおいて、この余分な処理負荷は、会話のつまずきとして現れる。応答の遅れ、唐突な単純化、不必要な英語への切り替え、あるいは会話の流れを断ち切るような驚きの表情などである。先ほどのスケッチで、店員が繰り返し戻っていくのは実際の言語能力ではなく、「日本人か外国人か」という近道的カテゴリーである。
このよく笑いのネタにされる体験を出発点として、筆者の進行中の研究はこの現象を実証的デザインのもとで検討してきた。私の最近の研究において、日本語話者が同じ日本語を、話し手の外見によって異なる形で処理するという現象を検討した。その際、「サプライザル反応(surprisal response)」——聞き手の現在の予測的文脈において、ある出来事の確率が低いと判断されたときに観察される処理コストの増大——をこの言語現象を支えるメカニズムとして取り上げた。
重要なのは、この文脈が話し手の外見のような社会的アイデンティティの手がかりを含んでいるという点であり、先行する語句だけではない。つまり、「外国人に見える→英語/非流暢な日本語」という暗黙のマッピングを聞き手が内面化しているならば、外国人と知覚される話し手からの流暢な日本語は確率の低い出来事として機能する。その結果、当人がどれほど流暢に話していても、理解に要する処理負荷が増大してしまう。
現在の結果から、日本人参加者が外国人に見える話し手を視認した場合と日本人に見える話し手を視認した場合とで、処理負荷に差異が生じることが示唆されている。具体的には、同一の音声であっても、外国人に見える話し手を視認している条件ではサプライザルスコアが上昇し、記憶課題のパフォーマンスが日本人に見える話し手の条件と比較して有意に低下した。
後続の研究では、集団帰属感がさらにこの現象に影響を与えることも見出された。外国人が日本出身か海外出身かによって記憶課題のパフォーマンスが有意に変動した。また、民族的曖昧性も同様の効果をもたらし、話し手のアイデンティティが不明確な場合には反応時間が遅延し、日本人に見える話し手と比較してパフォーマンスが低下した。
第三の研究では、南アジア系あるいは白人に見える話し手については東アジア系あるいは日本人に見える話し手と比較して知覚されるアクセントが有意に高く評価されることが示され、南アジア系・白人系話し手は英語を話すものとしてより強くバイアスがかかり、日本人・東アジア系話し手は日本語を話すものとして扱われる傾向がより顕著であった。
これを心理学的に捉える一つの有用な方法は、人が常に次に遭遇するものを予測し、実際に見聞きしたものに基づいて修正し続けているという観点である。私たちはカメラのように世界を受け取るのではなく、過去の経験から構築された期待を用いて世界を解釈する。期待と実際が一致すると、会話はスムーズに感じられる。一致しないとき、脳がミスマッチを解消しようとする中で、精神的な「衝撃」、つまり混乱や努力の瞬間が生じる。社会的場面においては、集団に関する期待がこの予測システムの一部となり、聞き手の第一印象が、気づかれないうちに、何に注意を向けるか・同じ言葉をどう解釈するか・どのように応答するかを形成することがある。これが、バイアスが意識的な意見に限られず、自動的なデフォルトとして注意と解釈を誘導し、何かが更新を強いるまでその状態が続く理由である。

なぜこれが重要か
もちろん、視覚的手がかりに頼ることは日常生活を送る上で普通のことである。多くの文脈において、外見的マーカーは迅速で有用な情報を与えてくれる——案内が必要かもしれない人、看板の言語が何語かもしれないか、このやりとりがどのような性格のものかなど。だから、店員が最初に誰かを誤解したり、「外国人に見える」クラスメイトが流暢な日本語を話すときに学生が目を丸くしたりするのは、社会的知覚の普通のエラーに過ぎない。問題が始まるのは、その一瞬の推論が暫定的な仮説であることをやめ、やりとりに影響を及ぼし始めるときである。その時点でカテゴリーは記述的なもの(「これが起きていることだと思う」)から規範的なもの(「これが起きているに違いない」)へと移行し、目の前にいる人物ではなく、その思い込みを中心にやりとりが組み立てられてしまう。
しかし、その影響は日本社会を構成する人々に実質的な結果をもたらしうる。外集団化は、日常生活と長期的な結果を形成する繰り返しの微細な判断として現れる——職場でより無能と扱われること、地域の「普通の」やりとりから排除されること、制度的な障壁や過剰な監視を受けること、そしてカテゴリーがいつ個人を凌駕するかわからない慢性的なストレスを抱えること。それはまた、信頼と平和的なコミュニティを構築するための条件を損なう。コミュニケーションと協力が通常の互恵性ではなく、疑念と距離を通してフィルタリングされてしまうからである(Rogers et al., 2020)。
そしてひいては、外集団に位置づけられてしまう人々に深刻な影響をもたらしうる。たとえば在日コリアンは、何世代にもわたって日本に暮らしてきたにもかかわらず、日常生活において偏見に直面し、社会経済的・心理的な悪影響を受けることがある。
「俺は小学生、中学生の時に自殺したいぐらい悩んだんだ。本気で自殺しようかと思ったぐらい悩んだ。それぐらい差別、人間に対する差別というのは、つらいものがあるのよ。」
――孫正義(ソフトバンクグループ創業者・CEO)
差別との闘いはいかなる文化にも固有のものではないが、「存在しているのに見えていない」ことには特別な痛みがある。「外国人」とみなされる人々が繰り返し部外者として扱われると、日常生活が一連の小さな試練のように感じられ始める——適切な言葉を選ぶこと、自分のアクセントが批判されないか判断すること、いつ話してよくていつ黙っていたほうがよいかを決めること、誰かが単純な言葉で話しかけてきたり自分の言ったことを退けたりする瞬間に身構えること——こうしたことが積み重なり、摩擦なく動ける場所が減り、世界が狭まっていく。
この問題が重要なのは、日本における多様性をめぐる主要な公的言語——多文化共生——が文化的理解とコミュニケーションを強調しながらも、長らく欠落している点があると批判されてきたからである。一つの批判として、「文化」に焦点を当てることで経済的・社会的不平等が見えにくくなり、「私たち/彼ら」の分断を再生産しかねないという点が挙げられる。その結果、承認は表面的な装飾(食、衣服、祭り)の水準にとどまり、より深い平等は手つかずのままとなりうる(Nagayoshi, 2018)。
言い換えれば、「共生」を謳う同じ社会が、日常生活においては依然として硬直した成員カテゴリーのうえで動いていることがある。先のスケッチが笑えるのは、そのカテゴリーがいかに頑固であるかを誇張して描いているからにほかならない。
世界市民性との接点
ここで「世界市民」は単なるスローガンを超えたものとなる。「世界」という概念を、より広く動的な全体として捉え直すためには、その全体に対して開かれたまま、自分が何者であるかを消し去らずにいることを学ぶことが課題となる。
重要なのは、教育的な動きとはカテゴリー化を排除することではなく、主に「答える」ように訓練されてきた状態から「問う」ように訓練される状態へとシフトすることである。カテゴリーは不確実性を切り抜けるための不可欠なツールであるが、予測処理の観点からは、それは「事前確率(prior)」——証拠が十分に検討される前の、何が起きているかについての初期予測——として機能する(McGovern & Otten, 2024)。
カテゴリーが問題となるのは、それが迅速な最初の推測であることをやめ、最終的な答えとして機能し始めるときだけである。店員のシーンでは、外見に基づいて初期的な仮定を用いることは普通のことである。誰もが日常生活でそうする。問題は次に何が起きるかである。彼女はその仮定を確実なものとして扱うため、それが目の前で起きていることと本当に合っているかどうかを確認しない。
会話が明確な証拠を示しても——外国人とされる人々が実際には外国人ではないことは明らかにもかかわらず——やりとりは最初のラベルに縛られたままである。これが、カテゴリーが役立つ近道(「これが起きていることかもしれない」)から規範的なルール(「これが起きているに違いない」)へとシフトし、誰かに与えられる忍耐・注意・信頼性を形成し始める時点である。
世界市民性教育がここで重要なのは、まさに事前確率が過度に確実なものになるその時点を標的とするからである。学習者が、(1)自分が何を仮定しているかに気づき、(2)仮定を判決ではなく仮説として扱い、(3)社会的に認められた文脈においてステレオタイプに反する普通の例に繰り返し接することができれば、事前確率はより柔軟になり、証拠に対してより応答的になりうる。これは「信念更新」の立場へのシフトであり、経験依存的な学習に身を委ねながら次に何が期待されるかを改訂していくことである。言い換えれば、介入の標的は、成員資格を管理する事前確率の確実性を低下させ、接触・省察・実践を通じてそれを更新する意志を高めることである。
これはまた、「日本型多文化共生」が脱政治化・脱歴史化すると短絡的になりうる理由をも明確にする。それは差異について語りながら、根底にある予測的デフォルトを手つかずのままにすることで、日本語話者の空間における「普通の」参加者が誰であるかをめぐる構造がそのまま維持されてしまう可能性がある。
対照的に、世界市民性を真剣に受け止めるということは、成員資格の管理以外のものの上にやりとりを再構築することを意味する——文脈・共有された実践・関係への注意と、自らの予測的近道に対するメタ認知的意識を意図的に鍛えることへのシフトを必要とする。
参考文献
栗本英世(2016)「日本的多文化共生の限界と可能性」『未来共生学』第3号,69–88頁.https://doi.org/10.18910/56236
永吉希久子(2018)「日本人の多文化社会に対する意識」『東北文化研究室紀要』第59号,35–47頁.http://hdl.handle.net/10097/00127840
Komisarof, A., Leong, C.-H., & Lim, T. (2025). Social markers of acceptance in Japan: Examining acceptance criteria for immigrants of different ethnocultural heritages. International Journal of Social Psychology / Revista de Psicología Social, 40(2–3), 508–558. https://doi.org/10.1177/02134748251337713
Komisarof, A., Leong, C.-H., & Teng, E. (2020). Constructing who can be Japanese: A study of social markers of acceptance in Japan. Asian Journal of Social Psychology, 23(2), 238–250. https://doi.org/10.1111/ajsp.12396
McGovern, H. & Otten, M. (2024). Priors and prejudice: hierarchical predictive processing in intergroup perception. Frontiers in Psychology. https://doi.org/10.3389/fpsyg.2024.1386370
Rogers, L., Ottman, E., & Pavloska, S. (2020). Hidden biases and their influences on multiple oppressions experienced by non-Japanese residents in Japan. 現代社会フォーラム, 16, 14–33. https://dwcla.repo.nii.ac.jp/record/1947/files/AA1201534X-20201005-14.pdf
Sato, Y. (2021). ‘Others’ among ‘Us’: Exploring racial misidentification of Japanese youth. Japanese Studies, 41(3), 303–321. https://doi.org/10.1080/10371397.2021.1982645
Yamashiro, J. H. (2013). The social construction of race and minorities in Japan. Sociology Compass, 7(2), 147–161. https://doi.org/10.1111/soc4.12027


