執筆者・インタビュアー:林尭親
はじめに
世界市民教育プロジェクトは,研究・教育・社会対話を横断しながら,「世界市民教育」の内容や方法をあらためて問い直し,実践を共創していく取り組みです。しかしブログやホームページだけでは,その全体像が伝わりきっていないかもしれません。そこで今回は,教育学・教育哲学の立場から本テーマに取り組む広瀬悠三先生に,概念の核とプロジェクトのめざす姿をうかがいました。

世界市民教育,そして本プロジェクトの目指すものを理解していただく一助になれば幸いです。
まず,世界市民とはどういった概念でしょうか。
古代ギリシアの哲学者,ディオゲネスがどこ(のポリス)から来たのか,と問われ,「私は世界市民(コスモポリテー)である」と答えたことに端を発する概念が「世界市民」と言われています。
現代でも,ユネスコが提唱している「地球市民・グローバル市民(global citizenship)」という言葉がありますが,私はこれらの言葉と「世界市民」はすこし区別して考えたいと思っています。
それはまさに「世界」という言葉の特異性にあります。
例えば,「地球」という言葉はある種の物理的な場所を限定しているとも言えます。一方で,「世界」という言葉には国境を越える水平的広がりだけでなく,垂直的な広がり(超感覚的・超越的な次元),さらに時間的な広がりまで含まれていると考えられます。
また,私はこれを「動的な全体性を備えた空間的領野」と呼ぶことがあります。
もっとも,もし世界があらゆるものを含むなら,厳密に捉え切ることは不可能です。ただ,その全体に開かれて生きようとする在り方こそ,世界市民と呼べるのではないでしょうか。人権や普遍的価値の共有ももちろん重要ですが,それだけなら「人間」と言えば足りるかもしれません。
「世界」という言葉を使う意味は,まさに全体性への開放にあります。そして,この全体に開かれているということが教育にとっても重要担ってくると考えています。
では,そういった世界市民を育むにはどのような教育を行うことができるのでしょうか。
不完全かもしれませんが例として学校教育の構造的特徴を挙げてみたいと思います。
学校はしばしば問いに「答える」営みに偏ります。例えば,授業内では先生の質問に答えるし,テストでは書かれた設問に回答するというように,現在の学校教育においては「答える」機会が多くあります。
一方で,「問う」機会はあまり多くありません。「問い」というのは最初から絞られておらず,いろいろな事象と関わっていないと問えません。この点において,「答える」ことよりもより多様な領域との接続を要求します。世界に入り込むきっかけとして「問う」事を考えてみても良いのではないでしょうか。
もう一つ強調したいのが,「地理的な学び」です。地理(geography)は,地球や大地(geo)の事象を記述する(graphy)営みでした。
タンポポをむしって教室内に持ってくるのではなく,タンポポが咲く場所へ出て,日照・風・土壌・虫・道ごと観察し学ぶ。断片を切り出すのではなく,あらゆる連関や開かれた世界を丸ごと理解する総合的な取り組みと言えます。かつてはそのような性質から「博物学」と言われたりもしました。
世界そのものを再現はできないにせよ,全体性へ開かれる感覚を育む上で地理的な学習は極めて有効だと考えています。デューイやシュタイナー,カントといった著名な哲学者も地理の重要性を謳っています。

たしかに,歴史にしても植物にしてもある事象を理解するときに,その前提となる時空間のコンテキストまで含めて理解することは少ないですね。
もう少し世界市民教育について聞かせてください。広瀬先生が書かれた論文のなかで,世界市民教育の中核である対話は「空間的信頼」の担保によって開始可能になると説かれています。
「空間的信頼」の意味について,例を交えながらご説明いただけますでしょうか。
前提として,近年の教育では対話がたしかに重視されていますが,私は対話だけでは不十分だと考えています。
ただ,対話においては相手への信頼があることが重要視されていることは事実です。私達が相手を信頼するときには性格や性質,行動を見ると思います。しかし,これは学校においてはこの信頼は非対称的な場合があります。たとえば教師と生徒の関係には情報や力関係の非対称性があります。先生は生徒をある程度信頼して接しますが,生徒・学生側は「この先生はほんとに信頼できる人かな」「優しくしてくれるかな」という風に構えることがあります。
一方で,友人同士では対等な信頼があります。アリストテレスも行ったように友情にも種類があります(「実用の友情」「快楽の友情」「善の友情」)。教室内においては,クラスメイトと善の友情(つまり,役に立つからでも楽しいだけの友人ではなく,その人のそばにいたいと思う友人)を気づいている場合が多くあります。
しかしよく考えてみると,その友人たちは同じ教室を共有しているという偶然の事象に根ざしています。つまり,人や性格に直接帰されない,行為・実践・環境に根ざした信頼があり,私はこれを「空間的信頼」と呼びます。
たとえば,あなたが「心理学という営み」を信頼して学ぶ,「野菜を食べる習慣」を信じて身体を整える,「ジョギングという実践」を信じて暮らしに取り入れる——これらは人そのものではなく,事柄や場(place)への信頼です。私たちは,他者の特質を完全には理解できません。それでも,その人が置かれた生活世界のふるまいや関係の織り目を通して信頼を形成していく。教育における人間関係の信頼は,この空間的な基盤に支えられています。

そう考えると,私達の人間活動の多くが空間的な信頼に成り立っていて,その空間を開くという意味で世界市民教育の重要性がますます感じられます。
本プロジェクトでは,世界の中でも「京都」や「日本」,そして「東アジア」という場所をベースにしています。
東アジアや東洋な文化的思想の研究が貢献できることはなにかありますか。
東アジアについて考える理由はいくつかあります。
一つは,東アジアの思想的な魅力です。多くの研究や分析で言われていることですが,西洋の二項対立(現実/理念,現世/天国)とは異なる,一体性の感覚が東アジアでは多く見られる側面があります。
もう一つは,日本絡みたときに東アジア諸国,つまり隣人との共生を考えるうえで東アジアは我々にとて特別な存在です。日本は韓国・中国・台湾・ロシアなどと歴史的・地理的に近接し,しばしば利害が衝突するなかで,現実にどう共生するか。世界市民を遠い抽象的他者との関係に限定せず,最も近い他者との困難な関係から考えることが,試金石になると考えています。

そうですね。ウトロ平和祈念館への訪問や,パク先生を始めとする東アジア文化・社会の研究を通して,今後も深めていきたいところです。
さいごに,本プロジェクトの目標とこれからの活動の方向性についてお聞かせ下さい。
実のところ,世界市民教育は歴史上まだ実現されていないものとも言えます。その意味では,固定化されたカリキュラムやアウトカムを前提にするより,何が世界市民教育たりうるのかを,多面的に考え・提案し・試す場を創りたいと思っています。特定のメソッドがあるわけでも,確定した理論があるわけでもない,未だ実現したことのないことを考えていくプロジェクトです。
ただ,研究は必ず専門が細分化しがちです。本プロジェクトに所属する研究者や院生の皆さんにもそれぞれの研究テーマがある上で,もう一つの横断する枠をプロジェクト内に用意し,各自の専門と世界とを結び直す機会をつくる。それが私たちのめざす姿です。
編集後記——「答え」より「問い」へ
取材を通じて最も印象的だったのは,世界=動的な全体性への開放というコアと,それを支える空間的信頼の発想でした。私たちのプロジェクトは,単に国際化を掲げるのではなく,場と実践に根ざした関係性から世界を学び直します。
問いを立て,現場へ出て,隣人と向き合う。その積み重ねの先に,世界市民教育の中身が生まれてくるのだと思います。


