【ブログ】問うことについて ―京大アカデイ2025を終えて―

Lumen

執筆者:林尭親(メンバーについて確認する

For the most part we do not first see, and then define, we define first and then see. In the great blooming, buzzing confusion of the outer world we pick out what our culture has already defined for us, and we tend to perceive that which we have picked out in the form stereotyped for us by our culture.

私たちは多くの場合、まず見てから定義するのではない。
先に定義し、そして見る。
外界の百花繚乱のざわめく混沌から、私たちは文化があらかじめ与えた枠で事物を選び取り、そしてその枠に刻まれた定型のかたちで世界を知覚してしまう。

Walter Lippmann
ウォルター・リップマン)

基準を問う

ある世界に「あなた」と「わたし」の二人だけがいるとしよう。

あなたとわたしを区別するには,「わたしは髪が長くてあなたは短い」や「あなたは口達者でわたしは口下手だ」のように,眼前の人との直接的な対比をもって説明が可能である。

では,この世界に第三者である「かれ」を投入しよう。

この場合,かれを説明するのには,「あなた」と「わたし」と「かれ」の違いを可能な限り羅列し,すべての特徴の比較をもって「かれ」を説明することができる。または,もっと簡便な方法として,「あなた」と「わたし」の特徴を基準化しその基準と照らし合わせ,「かれ」がある基準においてどういった差異もっているかを示せば良い。後者の方法は,特に第4者以降が存在する場合において有用であり,事実上この方法が多くの場合において採用されている。

つまり我々が,自己や他者を理解するのには,個人差を説明するのに耐えうる共通した基準を見つけることになる。これを世界の理解に拡張する際には,世界において人類が存在し生きていくうえでおおよそ共有している外的・内的な基準(肌の色,考え方,信仰など)を洗い出し,それぞれの違いをラベルづけすることで,自己(もしくは自分が帰属する集団)と他者(もしくは他者が帰属する集団)との差異をもって世界のイメージを作りあげる。

なるほど,世界を理解するということは,差異を理解することであると言えよう。

しかし,ここで使用される「基準」は必ずしも普遍的なものではない。つまり,「あなた」が「かれ」を説明する基準と,「わたし」が「かれ」を説明するのに採用する基準は異なる場合があり,たとえばそれは肌の色かもしれないし信じている宗教かもしれない。日本は島国ということもあり,海を超えて来た人間を日本人か否かという基準に従って分類し,外国人というラベルを付ける。この基準は日本人の中に浸透しており,もはや個人的な基準の決定とラベル付けというよりは,文化・社会レベルでの運用になっている。

話をこのプロジェクトのテーマである世界市民教育に移そう。

今回の京大アカデミックデイ2025における来場者の方との対話でも明らかになったが,「世界市民教育」という言葉には「世界で普遍的な統一された目標や価値観を持つようにする教育」というイメージが抱かれやすい。しかし,これは一般的に世界市民教育が目指すところではない。世界市民教育とはむしろ,世界のなかの文化や社会,ひいては個人の中に存在する複雑性を以下に育むかということに焦点を当てる(もっともこの点においては議論の余地がある)。

基準の更新

さて,今回の京大アカデミックデイ2025における対話で得られた印象的なエピソードを一つ紹介させてほしい。

中学1年生の息子を連れてきた韓国人のお母さん(お父さんは日本人)は、子どもが小学生のときに友人から「朝鮮人」と呼ばれて大きなショックを受け、それ以来アイデンティティについて考えるようになったと話してくれた(その友人は「朝鮮人」という言葉が持っている歴史的な背景は知らず,ただ「朝鮮半島」と同じ考えで使った)。

ところが昨年、ある先生から「二つのアイデンティティを持つのはハーフではなくダブルである」という話を聞いて以来、自信を持つようになった。

ここでは「ルーツのある地域」という基準が友人によって(それが意図されたものかどうかは別として)付与され,その基準において(日本人と異なる)朝鮮人という言葉がつけられた。また,アイデンティティとしてハーフであるかという基準を内在化し,ハーフであるということが確定したことで悩みを持つようになった。しかしその後,先生からハーフであるという基準上の答えではなく,ハーフであるかという基準そのものを「ダブルであるか」と言う基準をによって更新されたことで,自身が持てるようになったと説明できるかもしれない。

この貴重な体験の共有からは重要な示唆が得られる。それはつまり個人的な体験が基準を問うことを可能にし,基準の変更によって自己および他者の理解が変容するということである。

このことは,世界市民教育をテーマに研究を進める我々にとっても発見であり,個人的な体験を鮮明に受取り,理論や仮説を再構築することの重要性を再確認する恵まれた機会となった。

その他にも,職場における外国籍の同僚との衝突や,教室内での外国籍児童との関わり,宗教や政治イデオロギーに起因する紛争など,多くのラベルによって考えてしまいそうな種々の問題を,個人的な体験に還元してみることで基準を問い直すことができる可能性を対話の中で多く確認できた。

来場者の声

さいごに,来場者の方々が「世界」という言葉に対してどのようなイメージをもっているかを紹介したい。

問い:「世界」と聞いて,何をイメージしますか?

「世界」という言葉の捉え方には多様性が見られた。ある人は「地球」や「でかい」といった物質的なイメージを抱いた一方で、多くの人は「日本の外」というような世界の概念的なイメージを語ってくれた。ある男性は「自分の世界は関西で、電車で行けない場所はすべて『世界』の外」と語っていた。また子どもたちの中には「言葉がちがう」「みんなちがってみんないい」といった、自分の経験と違うものとして「世界」を定義する例も見られた。

次回のブログ

次回は「世界市民教育」とはなにかについて,本プロジェクトメンバーへのインタビューを通じて,探索していきたい。

2025年9月30日