認知的多相性と世界市民

Do I contradict myself? (私は矛盾しているか?)
Very well then I contradict myself, (よろしい,なら私は自分に矛盾している。)
(I am large, I contain multitudes.) (私は広大だ。無数を抱えている。)

Walt Whitman

私たちは,生来,自己矛盾を抱えている生き物かもしれない。

「人権は大事だが,自国の生活も苦しい」
「科学は信じるが,信仰も大切」
「国境を超えて助け合いたい。でも本音では“まず自分”と思ってしまう」

このような自己矛盾に私たちはどのように向き合うべきだろうか。

今回は,社会心理学(とくに社会的表象理論)で扱われる認知的多相性(cognitive polyphasia)という概念をヒントに我々の思考について考えていきたいと思う。これは、単なる「一貫性のなさ」ではなく,異質な知識・価値・語りが同じ人の中に併存し,状況に応じて使い分けられるという心のあり方を指す (日本社会学会 | Just another WordPress site)。

認知的多相性(Cognitive Polyphasia)とは

社会的表象理論(social representation theory)の文脈では,「認知的多相性は科学/常識/信念/イデオロギーなど、異なる(ときに矛盾もする)“知の形式”が,動的に併存し,文脈に合う形で呼び出されて行動や判断を支える」現象とされている。

重要なのは,先行研究がこの状態を「未熟さ」よりも,“知が文脈に根ざす”ことを捉えるための概念として位置づけている点である。Jovchelovitch は,知の多様性を認め,その多様な論理を正当なものとして扱うことが、異なる知のあいだの対話に寄与しうると述べている (Jovchelovitch, 2002)。
また,科学と常識の関係をめぐる議論では,異なる知の体系が「置き換わる」のではなく,並存して別の機能を果たすという整理もされている。


世界市民と認知的多相性の接点

UNESCO は世界市民を「世界の仕組みを理解し、違いを大切にし、他者と協働して“どの国だけでも解けない課題”に向き合う人」のように説明している (ユネスコ)。そして世界市民教育(GCED)で育てたい力として、批判的思考・他者視点の理解・多様性の尊重・公正や共感・行動などを挙げている (ユネスコ)。

ここに認知的多相性が噛み合う。なぜなら,世界課題(貧困,移民,気候変動,紛争など)はたいてい 「正しさが1つに定まらない」からだ。複数の価値や説明枠(経済・倫理・宗教・歴史・感情)が同時に立ち上がる場面で,どれかを即座に排除せず,状況に応じて往復できることは、世界市民的な判断の土台になりうる。


先行研究が示す「ポジティブな働き」?

「認知的多相性 → 世界市民性が高まる」を一直線に検証した研究は多くありない。だが,世界市民性に直結するテーマ(グローバル責任・境界の引き直し・対話・参加)の領域で,認知的多相性が「前向きに働く回路」はかなり具体的に描かれている。

A. 「自己利益 ↔ グローバル責任」の揺れが、抵抗と代案を生む(外国政策・市民判断)

アイルランド市民が中立政策や国際介入をどう語るかを扱った Political Psychology の研究では,議論の中に 「自己利益/グローバル責任」などの対立軸(themata)があり,社会的表象が多相的(polyphasic)になることで,曖昧さや両価性が生まれると報告されている。そしてその曖昧さが,特に若年層にとっては,支配的な語りへの抵抗(resistance)や,別の選択肢を提示する“語りの余地”になりうる、と論じられている。

これは,世界市民の核心に近い話であるかもしれない。「国益」か「地球規模の倫理」か,という二択を明確に決めるより,揺れを言語化し,より良い公共的選択に向けて議論を続けること自体が,世界市民的な実践だからだ。

B. 伝統と近代の使い分け

インドで伝統的治療と西洋精神医学が併存する状況を調べた研究では,同じ人が矛盾する表象を抱えつつ,それぞれを異なる社会的場面で使い分けることが示されている。さらに著者らは,こうした状態が,参加型の健康増進や開発の場面で「利点にも課題にもなる」が,少なくとも一部のコミュニティ成員においては,文化への埋め込みと新しいものへの開放性を同時にもつことが、,メッセージ伝達や協働の“橋渡し”になりうる,と述べている。

世界市民は「どこかの価値観に全面同化する人」ではなく,むしろ 複数文化・複数論理の“翻訳者”として振る舞える人,とも言えます。認知的多相性は,その翻訳可能性を説明する道具になります。

C. 「科学も神も信じる」

ナイジェリアの調査・インタビュー研究では,宗教と科学が単純に対立するのではなく,認知的多相性が hierarchy(片方を上位に置く)/parallelity(別機能として並走)/empowerment(相互に高め合う) という形で現れうると整理されている。この “empowerment” 型は,世界市民教育でよく問題になる「価値観の衝突」を,ゼロサムではなく協働可能性として捉える視点につながる。

D. 専門知と人間らしさの間で、支援の倫理を守る(健康・福祉の現場)

ホームレス支援の専門職を扱った研究では,専門的定義や制度要請と、人間的・倫理的な関わりの間で、知の場が矛盾を含む形で編成されていること,そしてそれが「人間化する支援」を維持し制度圧に抵抗する格闘として分析されている (Renedo & Jovchelovitch, 2007)。世界市民性は“遠い国際問題”だけでなく,ローカルな現場で他者の尊厳をどう守るかとも地続きなので,この知見は示唆的だ。


4) まとめ:認知的多相性が世界市民性に与える「ポジティブな影響」5つ

先行研究を総合すると、認知的多相性は次のような形で世界市民性を支えうる、とまとめられる。

  1. 多様な価値の併存を“異常”とみなさず、対話の土台にする(異なる知の対話)
  2. 自己利益/グローバル責任の間の揺れを、公共的議論や代案の源泉にする(抵抗と創造性)
  3. 文化・知の翻訳者としてふるまえる(伝統×近代の使い分け)
  4. 「どちらかが正しい」ではなく、並走・相互強化という関係の設計ができる(宗教×科学のempowerment)
  5. 制度・専門性と倫理の間で、人間らしい支援や尊厳を守る実践に結びつく

参考文献(主要なもの)

  • UNESCO(世界市民教育の説明・学習目標) (ユネスコ)
  • Jovchelovitch, S.(知の多様性/対話としての多相性) (LSEリサーチオンライン)
  • O’Dwyer, E., Lyons, E., & Cohrs, J. C.(自己利益↔グローバル責任の多相性と抵抗)
  • Wagner, W., Duveen, G., Verma, J., & Themel, M.(文化変動・コミュニティ開発と多相性)
  • Falade, B. A., & Bauer, M. W.(宗教×科学の多相性:parallelity/empowerment など)
  • 熊谷有理(社会的表象理論における認知的多相の日本語整理) (日本社会学会 | Just another WordPress site)