インタビュアー:林尭親,執筆者:林尭親,三澤紘一郎先生
はじめに
世界市民教育プロジェクトは,研究・教育・社会対話を横断しながら,「世界市民教育」の内容や方法をあらためて問い直し,実践を共創していく取り組みです。しかしブログやホームページだけでは,その全体像が伝わりきっていないかもしれません。そこで今回は,vol.1の広瀬悠三先生のインタビューに引き続き,教育人間学,教育哲学の立場から本テーマに取り組む三澤紘一郎先生に,概念の核とプロジェクトのめざす姿をうかがいました。
三澤先生は,英米系哲学の展開を手掛かりに,「人間であるとはどのようなことか」という人間本性に関わる探究と,「いかに人間になるか」,「人間としてどのように生きるか」という人間形成に関わる探究を包括的に理解することを目指して研究を行ってらっしゃいます(京都大学HPより抜粋)。

世界市民教育,そして本プロジェクトの目指すものを理解していただく一助になれば幸いです。
三澤先生の研究内容について,教えていただけますでしょうか。
大袈裟な言葉を使えば,私の研究は人間研究です。「人間という生き物をより十全に理解したい」という関心に基づいています。言うまでもなく,人間理解を目指すアプローチは数多く存在しますが,私は次の二点に重きを置いて研究しています。
1.人間を「内側から」理解すること
2.「人間はどのような存在か」という問いと「人間はどのようにしてそのような存在になるか」という問いを切り離さないこと
このような探究が教育哲学と呼ばれるのであれ,教育人間学と呼ばれるのであれ,あるいは別の呼び方をされるのであれ,私にとって重要なことは,これら二点を両立させた研究を進めることです。
ここまでの研究において,大きな導きの糸となってきたのが「第二の自然/本性(second nature)」という概念です。20世紀の後半に,ジョン・マクダウェル(John McDowell)という哲学者がアリストテレスの倫理的性格の形成についての議論に見てとり,それを「概念能力(conceptual capacities)」の具備に一般化したことで,(再)脚光を浴びるようになっています。

難しいので,少し説明します!
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で以下のように述べました。
すべての自由身分の人間は,倫理的に有徳(virtuous)な人間となり,実践知(practical wisdom / phronêsisの訳)を身につける潜在的可能性をもって生まれる。しかし,これらの目標を達成するためには,二つの段階を経なければならない。まず子どもの時期に,適切な習慣(habits)を形成しなければならない。そしてその後,理性(reason)が十分に発達した段階で,実践知を獲得しなければならない。ただし,これは,まず倫理的な徳を完全に身につけ,その後の段階で実践知を付け加える,という意味ではない。倫理的徳が完全に発達するのは,それが実践知と結びついたときに限られる(ニコマコス倫理学,6巻13章(1144b14–17)についてまとめたHPの記述より抜粋)。
マクダウェルは,アリストテレスが徳の発達について論じたモデルを,概念能力(なにかについて考えたり判断したり,理由に応答したりしえる能力)全般に拡張しました。
概念能力というのは理性(rationality)に属する能力なので,「われわれは一生物種として第一の自然/本性とともに生まれ,(主に言語の習得を通して)第二の自然/本性を獲得し,理性的動物となる」という描図が得られます。もちろん,この図式はあまりに大雑把なものですが,人間形成をめぐるこの「獲得モデル」は,もっとも抜本的な意味での「変容」に関わる教育言説と見ることができます。私はマクダウェルのほか,デイヴィッド・バックハースト(David Bakhurst)やジャン・デリー(Jan Derry)といった人たちの議論を中心に検討しながら,この描図の精緻化と豊饒化に取り組んできました。ただし,この描図に問題がないわけではありません。
第一の自然→第二の自然という「獲得モデル」の限界点などはないのでしょうか。
「第二の自然/本性」という概念は,銀の弾丸ではありません。たしかに,「第二の自然/本性」に着目することで,西欧近代の「自然科学的世界像」においては居場所が定まりにくく,しかし人間の生には欠かせない心,意味,規範,道徳,自由,自律性などにしかるべき意義と居場所を取り戻し,人間が「理性的動物」であることを神秘化せずに描き出すことが可能となったと言ってよいかもしれません。
しかし,先ほどの「変容論」には,出発点がおかしいのではないかという批判がしばしば向けられてきました。この批判をなおざりにしておくことはできません。
なぜなら,「第一の自然/本性」(のみ)を携えて生まれてくるヒトが,(何らかの「教育」を通じて)「第二の自然/本性」を獲得することにより,人間(理性的動物)になるという人間形成のモデルは,教育に失敗したら,あるいは障害や怪我などにより言語や概念能力の習得が果たされなかったら,「人間」になれないかもしれないという可能性を含意するからです。そのような含意は,倫理的にも,「第二の自然/本性」のもつ「習慣化(habituation)」という意味合いの点からも,受け入れがたい。したがって,「変容論」に往々に見られる「第一の自然/本性」と「第二の自然/本性」の峻別は見直される必要があります。
その見直し方にはさまざまな方法があるでしょうが,私が説得力を感じるのは,「第一の自然/本性のみが備わるヒト,つまり単なる動物(mere animals)」という出発点の変更です。人間は,「第二の自然/本性」の獲得を通じて理性的動物になるのではなく,生まれながらにして理性的動物なのではないでしょうか。「第二の自然/本性」は,「第一の自然/本性」の具現化であって,(独特の機制と魅力をもつものの)「第一の自然/本性」と切り離された別種の新たな能力ではないということを心に留めておく必要があります。言い換えれば,「ヒトから人間へ」という大文字の「変容論」は保持できないということになるかもしれません。
もちろん,生まれたばかりの人間の赤ん坊は,言葉を話すことも概念的な思考をすることもできません。しかし,上記の見直しが私たちに要請する態度は,彼/彼女らがまだ――あるいは何らかの要因でずっと――言語や概念能力を習得し(てい)なくても,彼/彼女たちとそれらの能力を備えた人間の間に,理性的動物であるかないかという境界線を引いてはならない,というものです。これは,倫理的な人間観の一つという以上に,人間という概念のもつ論理だと言えるのではないでしょうか。近年では,例えばセバスティアン・レードル(Sebastian Rödl)やアンドレーア・ケルン(Andrea Kern)といった哲学者たちが,人間の生(理性的な生)の形式=生命形相(life-form)という観点から人間と小文字の変容を理解するという方向の探究を行っています。
それでは,人間はどのような存在であると言えるでしょうか。
人間は理性的動物であると言うと,過度に知性主義的に聞こえるかもしれません。しかし「人間=理性的動物」論は,自分の効用を最大化するように常に行動したり,先々のことを隈なく計画立ててそれを着実に遂行したりするような個人を想定しているわけではありません。感情や恍惚を無視するわけでも,非合理的な言動や「ことばを超えた」芸術作品の存在といったものを蔑ろにするわけでもありません。人間が理性的動物であるとは,人間がウィルフリッド・セラーズ(Wilfrid Sellars)の言う「理由の論理空間(the logical space of reasons)」の住人であるということです。ごく簡潔に言えば「理由の空間」とは,理由に応答し合える空間ということですので,「人間=理性的動物」論というのは,人間は理由に応答し合う相のもとで生を送る動物だということを意味していることになります。
ここでは,重要だと思われる四つの注釈を付け加えます。
一点目は,「理由」は朝6時にセットした時計のアラーム機能がその時間になると鳴るというような機械的な原因とは異なり,そこには意味や規範が付帯しているということです。「理由の空間」において「理由」は,「原因(cause)」になることもあります。たとえば, 目の前に困っている人がいたら,その助け方はさまざまであれ,なんらかのかたちで関わることが引き起こされます(その状況を適切に見てとることができないのであれば,それは問題であり,改善される必要があります)。「原因」を近代の自然科学が明らかにするような自然法則に限定しがちな思考様式から,私たちは解放される余地が大いにあります。
二点目は,「理由への応答」は必ずしも言語化,命題化を伴わないということです。咄嗟の行為や没入経験のさなかにも理由は示されています。
三点目は,理由には善し悪しや質の違いがあり,その把握や感受の仕方,され方にも程度の違いがあるということです。たとえば,贔屓の野球チームが負けたから児童に怒るというのと,その子の現状と成長を考慮に入れて怒るというのでは違うでしょうし,将棋で3四歩が定跡という場面でも5三に金を打ったほうが効果的に相手玉に迫れるというのも理由の質の差だと言えます。したがって,「理由の空間」における(小文字の)変容はいくらでも可能ということになりますし,特別な天分に恵まれた人たちのみに慄きを与えるような理由への応答が存在するということにも不思議はありません。
四点目は,「理由の空間」は単数形(space)であって複数形ではないということです。絶望的にわかり合えないかに思われる他者とも,原理的には同じテーブルにつくことが可能ということです。
三澤先生が考える世界市民教育とはどんなものでしょうか。
私は「世界市民教育」の専門家とはとても言えませんが,ここまで述べてきたことから考えてみると,次のように言えるかもしれません――私たちは「世界市民になる」のではなく,「生まれたときからみんな世界市民である」。少なくとも,そのように考える視点もありえるのではないか。
生まれ落ちた後,私たちは特定の言語を話し始め,特定の宗教なり社会規範なりを内面化し,学校や実生活の中で物事のあり方や見方を身につけ……というように,「世界市民」を考え始めるときには,多くの場合,実に多くのことをすでに学んでいます。そのため,小学生であれ,大学生であれ,もっと上の年代の人であれ,たとえば地理的にも文化的にも政治体制の面でも自分とは大きく異なる地域で暮らす人と同じ「世界市民」だとはなかなか実感しにくいというのが実情ではないかと思います。その地点から,特別に構想されたプログラムの知識,スキル,体験等を学ぶことによって「世界市民になる」ことを目指す教育というのは,あまりに遠大で理想主義的ということになってしまうかもしれません。多くの「世界市民になれない」人たちを生み出すことにもなりかねません。
それならば,「私たちは生まれながらにして世界市民である」ということを出発点に置いてはどうか。無数の属性の違いにもかかわらず,私たちは「理由への応答」から成る「理由の空間」の住人として無条件に人間であり,その意味で「世界市民」である――このように言うこともできるのではないでしょうか。
世界市民教育プロジェクトにおいてどのような研究ができるかについて,私に明確なヴィジョンがあるわけではありません。しかし,少なくとも「人間形成・教育」部門における研究(research)は,私たちが同じ人間であり,世界市民であるという事実を「もう一度よく見つめなおすこと(re-search)」とともに推進していくというのが一つの方向性なのではないかと考えています。このような方向性から,(うまくいけば)たとえば審美的であることと道徳的であることが同時に成り立つような研究が可能になるかもしれません。つまり,多くの人々が気づかなかったり等閑視したりしている物事を見てとり,そのニュアンスを浮かび上がらせ,そういった諸相を人々が気にかけるようになることに資するような研究です。
最後に,本プロジェクトへの期待を教えてください。
教育学研究科というところは,教育学者たちが一枚岩に集っている場ではなく,心理学,社会学,歴史学,哲学……といった個別の学問手法や知的伝統に親しんでいる研究者たちから成る寄り合い所帯です。百花繚乱とタコツボ化は,同じコインの両面と言ってよいでしょう。
本プロジェクトも現在,三つの部門に分かれていますが,学部や研究科の系・講座・コースといった枠組みを跨いで大学院生たちも教員たちも活動しており,三部門合同でのイベント(例えば,過去にも開催したアカデミックデイ)や取り組みも活発であることはすばらしいと思います。「人間を人間たらしめているもの」に関わる世界市民教育は,教育の根幹をなすテーマだと言ってよいと思いますし,普段は独立した専門領域に属するメンバー間の交流を活性化させていくことが,このプロジェクトの重要な役割と意義の一つなのではないかと思っています。対話や交流の土壌はすでにあるので,院生同士,教員同士,院生と教員が,より「腹を割って」本気で議論できるようにしていければと考えています。

